1712年、イギリスのトマス・ニューコメンが、炭鉱の揚水用として実用的な蒸気機関を初めて用いた。イギリスではこれ以降、次々と蒸気機関が稼働していくが、この原動機を大砲移動用車両に活用しようとしたのがフランスの軍事技術者、ニコラ=ジョセフ・キュニョーであった。彼はフランス軍とルイ15世の財政的援助を得て、砲車の開発に着手。1769年には当初計画の1/2サイズの1号車での運転に成功したため、より大きなサイズの2号車の製作へと進んだ。翌70年にはこれが完成。この車両は前端にボイラー、その後ろに2つのピストンを持つ蒸気機関を備え、ピストンの往復運動はラチェット機構により回転運動へと変換されて前輪を駆動する3輪自動車であった。これは4人を乗せて5~7km/hで走行可能だったといわれるが、連続走行が15分までしかできず、その後の再走行まではさらに15分を要するという欠点があった。キュニョーの砲車は将来有望な移動手段と考えられていたが、軍部の人事交代でキュニョーの支持者が離れてしまったことなどもあり、これ以上の開発を続けることができなかった。なお、砲車の2号車については今も現存しており、パリ工芸博物館で展示されている。

キュニョーの砲車は極端なフロントヘビーで、なおかつ前輪は1輪であったことから、走行安定性を欠いていた。このせいもあり、1770年に完成した砲車の2号車は走行中に煉瓦の壁と衝突しており、これが世界で初めての自動車事故と言われている。

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